私が湿板写真を始めようと決めた時、最初に行ったのはデジタルカメラの処分でした。
2005年ごろ定価7万円だった700万画素のカメラは僅か5000円にしかなりませんでした。
誰でも気軽に写真を撮り、コミュニケーションの道具とすることが出来る便利な時代にあって、デジタルカメラは消耗品に過ぎない事実を実感させられる経験でした。
湿板を始める以前は漠然と写真制作をしたいと思い、その時考えていたのはPhase OneやLeafなどの中判デジタルでした。
「これが現代の最高峰のテクノロジーなのか」という目で眺めていたのですが、正直これが何一つ面白くない。
誰が撮ってもくどいほどの高精細、高彩度、ハイダイナミックレンジ、確かにこれまで存在し得ない次元の写真です。しかしその質感が自分の目にとって本当に心地よいと思えるか?魂を揺さぶられるほど心酔できるか?と自問した時、私の答えはノーでした。
同時に、こういった拒否反応を抱くのが私一人のはずがない、ここまで飽和したデジタル写真への反動で、よりアナログな写真表現を行う動きが必ず生まれているはずだ、と推測し、そこで出会ったものがオルタナティブフォトグラフィであり、湿板写真でした。
私がこれらを知った2012年の時点で、海外ではこうしたアナログ写真表現が大変なブームとなっていました。 しかし日本では田村写真さんなどで局所的に研究が進められていたことを除けば、文化的にはほぼ完全に遅れをとっていました。
デジタルによって撮影コストが激減した結果、写真の価値はこれまでになく暴落しました。
何度でも撮りなおせるが故に、気軽に撮られてしまった写真が、家族や友人、恋人の遺影になるかもしれない、ということを恐らく多くの人は殆ど意識しません。
「デジタルであっても同じ写真を二度撮ることは出来ない」という事実を前提に、 一度切りの写真をできるだけ最上の形で残すならば、また、それを末永く残すならば湿板写真技法は最良の選択肢の一つです。
デジタルデータは消える時は一瞬で全てが失われます。保存メディアも永続的にデータを保持可能なものは市販品には存在しません。
生きている限り、定期的なバックアップに配慮し続ける必要があります。なんと疲れる話でしょうか。
フィルムであればまだ幾らか楽です。
しかしカラー写真のプリントは比較的短い年数で退色します。モノクロフィルムであっても印画紙の劣化を防ぐにはそれなりの手間と知識が求められます。
湿板写真ならば、カビや火気、アルコール類に気をつければ100年以上持ちます。
長くても100年程度しか生きない我々人間にとって、この「100年持つかどうか」はとても重要な主題ではないでしょうか。
効率性の下に我々現代人を飼い慣らすデジタルの時代だからこそ、私には湿板写真という技法の価値が浮き彫りにされるように思われます。
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